10検察官、弁護人がそれぞれの主張を行い、その上で、書証の取り調べ、証人尋問などが行われていく。争いのある事件では、この証人尋問が刑事裁判の最も重要な部分であり、公開の法廷で、証人に対して、長時間の尋問が行われる。その内容は調書として記録される。そして、すべての証拠調べが終了すると、総括として、検察官の論告、弁護人の弁論、被告人の最終意見陳述が行われて、審理は終結する。その上で、裁判所が判決を宣告する。民事裁判では結論のみが法廷で読み上げられて、理由部分は紙(判決書)で示されるが、刑事裁判の場合は、理由を含めて全文が裁判長から口頭で告げられる。4.エイズの歴史エイズは、当初、奇妙な病気の流行として認識された。1982年9月に米国において「著明な免疫不全症候群であり、ほかの原因が見当たらない日和見感染またはカボジ肉腫」として定義された。その9か月後の1983年6月に日本の厚生省はエイズ研究班を発足させて、安部英医師がその班長となった。安部医師の血友病患者の中に著明な免疫不全を発症した者がいたので、安部医師はこれをエイズの可能性があると主張したが、翌7月の第2回研究班の議論の中で他のメンバーの反対により否定された。その他の疑われた患者もすべて否定されたので、研究班の検討結果では、日本にはエイズ患者は存在しないこととなった。その後、血友病治療の変更の必要があるか否かの検討(必要なしとの結論となった)を経て、1984年3月の第5回の会議で最終報告書が採択されて研究班は解散となった。その直後の同年4月に、米国のギャロとフランスのモンタニエとが、別々に、しかし同時に、エイズウィルスの同定を発表した。ギャロは、その論文の中でエイズウィルスの抗体検査が可能と記していたので、安部医師は、直後の6月に、帝京医大に保管されていた血友病患者48名の血液サンプルをギャロのもとに送付した。3か月後の9月にギャロから検査結果が送られてきたが、それによると、48名中23名が抗体陽性であった。翌1985年7月に、厚生省が加熱血液製剤を承認して、その後は血友病治療にこれが使えるようになったが、それまでは、従来の非加熱血液製剤が広く使われていた。他方で、1985年5月から6月の時期に帝京大病院で非加熱血液製剤を投与された患者が、エイズウィルスに感染し、その後エイズを発症して1991年に死亡した。このことで安部医師は1994年4月に殺人罪で告訴されることとなった。5.安部医師の刑事裁判検察は、当初この告訴事件の立件に消極的であったが、細川内閣が発足して菅直人が厚生大臣になって厚生省の方針を一変させたことから、急に積極的になった。その結果、安部医師は1996年8月に逮捕された。当時80才であった。安部医師は56日間勾留された上、業務上過失致死罪で起訴された。起訴状の骨子は、安部医師は、自身が科長を務めていた帝京大学付属病院内科の血友病患者のうち半数が抗体陽性であることを認識していたのだから、そのまま血液製剤の投与を継続すれば、高い確率で未感染の患者にHIV感染をさせ、その多くにエイズを発症して死亡することを予見できたはずである、というものであった。この事件では、東京地方裁判所で、1997年3月から2001年3月まで4年間にわたり、53回の公判が開かれた。うち、23回までは検察側立証、その後47回までは弁護側立証が行われた。検察側証人は16名、うち10名が医師。弁護側証人は16名、うち14名が医師であった。そのほか多数の医学文献が書証として取り調べられた。2001年3月、東京地方裁判所は第53回公判で安部医師に無罪の判決を下した。裁判所は、判決の中で、本件のような事件で事実を認定する場合には、当時の論文などの客観的資料が重要であり、検察官への供述や法廷証言などの事後的な供述については、その信用性を慎重に検討すべきとした。そして無罪判決の理由を以下のように述べた。(1)刑法上の過失は、一般通常人の注意能力を基準とする。本件では、通常の血友病専門医の注意能力が基準となる。本件のような医薬品の投与については、通常の血友病専門医の知識が基準となる。ところで、医薬品については、治療上の効能・効果の反面として有害な副作用が生じることは避けがたい。従って、通常の血友病専門医の知識を基準にして、その医薬品のベネフィットとリスクとを比較して、なお有用性が認められるとされていたときには、その医薬品の使用は許されるのであり、それにより悪い結果が生じたとしても過失責任はない。現に、血友病患者に既存の血液製剤を使用することは、当時の国内外の血友病治療医が一般的に行っていたこ
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