鹿児島県医療法人協会会報 vol.54・55合併号
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11医療事故と刑事裁判とである。従って、安部医師が血友病治療の権威者であったとしても、血液製剤投与継続を方針としていたことを過失とすることはできない。(2)また、過失責任を問うためには、その悪い結果をどの程度予測できたかが問題となる。安部医師が自身の病院の血友病患者の多くが抗体陽性になっていたことを認識していたことは争いがない。しかし、抗体陽性については①抗体陽性者はウィルスの現保有者であるか②ウィルスの現保有者は将来にわたってウィルスを保有し続けるのか③抗体陽性者の有する抗体はウィルスに対して防御的作用を有するのか④抗体陽性者はエイズを発症するのか。発症するとしてその発症率、コウファクターはいかなるものか、の4点からの分析が必要である。しかし、当時のエイズについての最先端の研究者でさえも、①②③についての明確な認識はなく、まして④については本格的な議論さえ始まっていなかったと認められる。従って、安部医師が「HIV感染者の多くがエイズを発症する」ことを予見できたなどとは言えない。すなわち、安部医師に予見可能性はなかった、としたものである。この無罪判決に対して検察は控訴したが、東京高裁の判決直前に、安部医師は訴訟能力を喪失して公判停止となり、その後安部医師の死亡により終了した。しかし、同じ裁判所が、全く同じ事件について、厚生省元課長に対して無罪判決を下していたので、東京高裁が安部医師に無罪判決を下したであろうことは明らかであった。6.刑事裁判のその他の問題(1)人質司法警察・検察は、逮捕すると自白を迫る。勾留という極限状態で毎日追及されると、苦し紛れに自白してしまうことは珍しくない。そして、自白を渋る被告人については、起訴後も保釈が認められず長期間の勾留が続くことを突きつけるので、ますます自白するようになる。これを人質司法と呼ぶ。安部医師の場合にも、80才という高齢にもかかわらず、起訴後56日間勾留された。検察は、車いすで取調室に連れてこさせた安部医師に、「過失を認めろ」と自白を迫った。安部医師は「私は勉強不足でした」との調書にサインさせられた。もともと、本件のような事例は、過失の有無はその当時の医学水準により決まることだから、意味のない調書ではあった。(2)メディアリーク検察は、司法担当の記者に手持ちの材料の一部を示して、検察ストーリーが喧伝されるように仕向ける。村木厚子さんの場合ですら、検察は、連日のように共犯者の自白として、村木さんが真犯人であるとの報道を続けさせた。安部医師の場合にも、血友病エイズの元凶は安部医師であるとの報道が連日紙面を賑わせ、テレビ放映されたので、血友病患者の中には安部医師は有罪であると思い込んだ者も多数いた。判決当時の新聞紙面では、大きな活字で「まさか 天仰ぐ母」「なぜだ 無念の傍聴席」「被害者置き去りか」という仰々しい見出しが躍っていた。安部医師の公判中には、証人尋問の最中に傍聴席からバーを乗り越えて来た男が、安部医師を手拳で殴りつけるという事件まで発生した。これも、メディアが誤った方向に人心を誘導した結果であった。昔から、検察とメディアと被害者とが同じ方向を向くと人権にとってきわめて危険な状態が生じる、と言われるとおりである。(3)検察の証拠隠し検察は、安部医師の裁判が始まった直後に、フランス及び米国を訪れて、シヌシ(モンタニエの共同研究者)及びギャロについて、司法共助により証人尋問を行っていた。しかし、その内容は著しく検察に不利で、安部医師の無罪を裏付けるものであったために、その存在を隠し続けていた。たまたま、これに気づいた弁護人がそれを開示させて、弁護側証拠として、法廷に出す結果となった。有罪とするためには手段を選ばずとの検察の体質は昔から変わっていない。7.むすび安部医師の刑事裁判で、裁判所が示した先述の医療行為における過失の基準は、きわめて重要であり、何かの時には想起していただきたい。それと共に、刑事裁判における人質司法及びメディアリークの問題にも注意していただきたい。

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