5医療法人協会報 vol. 57号される中立的専門機関が相応しいと」との結論に達し、日本医学会基本領域19学会が「診療行為に関連した患者死亡の届出について~中立的専門機関の創設に向けて~」を共同声明として発表し、医師法21条は誤解されたまま医療事故調査制度待望論とその創設に向かった。最高裁判決の2004年当時、私は東京女子医大人工心肺事件における業務上過失致死罪で起訴された(2002年)刑事事件の被告人として一審の係争中であり、心臓外科診療と自分の裁判で精一杯であった。このため、都立広尾病院届出事件の存在は認識していたが、判決文はおろか、論議されている事柄についても、医療事故調査制度の創設についても傍観者であった。その後、2005年11月の一審無罪判決を契機に、検察に控訴はされていたものの、私をスケープゴードにして特定機能病院の剥奪を逃れようとした東京女子医大や、私を能力が劣る医師や犯罪者として扱ったメディア14社を相手に名誉毀損の損害賠償を求める民事訴訟を提訴し、リベンジを開始していた。同時に、ブログ「紫色の顔の友達を助けたい」の執筆を開始し、刑事事件・民事事件周辺の事柄を投稿していた。そこで「本人訴訟」(原告自身が代理人弁護士を雇わずに訴状や準備書面を書くなどの実務を行う)でフジテレビに勝訴したことを投稿したところ、それまで全く面識のなかった田邉先生から、その勝訴の内容について連載中の医学商業誌で紹介したいとのアプローチがあった。この連載を単行本としてまとめた『弁護医師®による医療訴訟とリスクマネジメント』(2008年医療文化社)を贈っていただき、興味深く読んでいたところ「外表異状説」の章が掲載されていた。それまで、医師法21条の存在が問題になっていることは認識していても、ネット上の論議や医師、法律家による解説も読み流す程度であったためか、外表異状説は私の頭には自然に入ってきた。田邉先生によると外表異状説の元祖は、元裁判官で法学博士の米田泰邦弁護士であり、大阪刑事弁護研究会で発言されたのが最初であるらしい。米田先生は、『医療行為と刑法』(1985年)『医療紛争と医療裁判』(1986年)『医療紛争と医療裁判第2版』(1993年)『医療者の刑事処罰』(2012年)等の書籍があり、半生を医療紛争の解決に捧げてきた法律家だった。2009年4月に私の刑事事件での無罪が確定した。そのころから、「被告人の視点からみた医療司法問題」や「冤罪被害の経験からみた院内事故調査委員会と報告書の問題点」といったテーマで、学会講演や各地の医師会や保険医協会、医療コンサルタント主催のセミナーでの講演や執筆を繰り返していた。その中でも、3つの無罪事件(①東京女子医大事件②県立大野病院事件③杏林大割り箸事件)の当事者と弁護人をシンポジストとした日本医師会 総合研究所(水谷渉弁護士担当)主催の「更なる医療の信頼に向けて-無罪事件から学ぶ-」と題したシンポジウムは、全国の医師会にリアル配信され、日本医師会の歴史に残る大きな会だった。この会の冒頭に樋口範雄氏(当時東京大学法学部教授)による「医師法21条を考える」と題した基調講演があった。樋口氏は東大教授といっても元々英米法が専門で、生命工学・生命倫理と法政策など医事法については21世紀になってから研究活動を開始しているようだ。その基調講演では、明らかに異状死と異状死体を混同し、都立広尾届出事件の最高裁判決を理解しておらず、午後に登場した多くのディスカッサーと同様、「医師法21条を改正すべき」との発言があった。私はシンポジウムの中で、日本医師会の21条改正案を暗に揶揄し、「異状死ガイドライン」や「外科学会ガイドライン」を批判し「医師法21条は解釈が変わってきた」「解釈が変わってきたことに対して、医師が自律的に正すべき」と発言した。しかし、シンポジストや満員の会場の聴衆の誰にも刺さらず、賛同は得られなかった。この時点では私も勉強不足で、警察届出を抑制するためには、医師法21条を改正すべきか、誤った解釈を正すべきか混乱していた。日本医師会のシンポジウムの直後の8月下旬、現浜松医科大学医療法学教授で医師・弁護士の大磯義一郎先生4.医師法21条正しい解釈伝道の元祖:故米田泰邦先生と田邉昇先生5.「外表異状説」普及活動開始の端緒:日本医師会総合研究所シンポジウム(2011.7.24)6.東京大学医療法学夏季セミナーと「医師法第21条再論考」執筆の影響(2011.8~2012.10.6)医師法21条「外表異状説」普及活動と「医療の内と外の分離論」
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